笑気吸入鎮静法
過換気症候群ってご存知ですか。
治療中に、なぜだかだんだん呼吸が苦しくなり、しだいにこのまま息が詰まって死ぬのではないかと不安がつのり、手足の指や口の辺りがしびれた感覚に襲われる患者さんがいらっしゃいます。他の偶発症との鑑別は必要なのですが、過換気症候群(過呼吸)の場合が多いようです。
この原因は不安感などによって、呼吸をコントロールする脳の呼吸中枢が過剰に刺激され、呼吸が激しくなるからだと考えられています。呼吸が激しくなると、血液中の二酸化炭素分圧が下がり、酸素分圧が上がりますので血液がアルカローシスを起こして、しびれ等の症状が出ます。さらには息苦しさから、窒息するのではという恐怖心がつのり、さらに呼吸が激しくなって苦しくなります。悪循環ですね。
過換気症候群の主な症状をまとめると、
1. 呼吸が荒くなる(胸式呼吸でハアハア息をします。御本人は気づかない場合もあります。)
2. 息苦しい(窒息しそうな感じがすると言われる場合もあります。空気飢餓感とも呼ばれます。)
3. 口の周りのしびれ感
4. 手足の先のしびれ感(テタニー症状と呼ばれます。血液のアルカローシスが原因です。)
5. 意識が混濁する(混濁しないまでもぼーっとする事があります)
等ですが、個人差があります。
過換気症候群であると確実に診断できるなら、発作を起こした患者さんを放置しておいても死ぬ事はありませんし、何か後遺症が残る事もありません。まず、落ち着きましょう。(患者さんだけだなく、術者もです。)
誘因としては心因性のパニックがあるのですが、恐怖心やストレスが引き金になることもあります。ですから、ただでさえドキドキする歯科治療が引き金となって、過換気症候群を起こす方があるのです。いわゆる、パニック障害患者の患者さんは血液中の二酸化炭素濃度を監視している呼吸中枢が過度に敏感なため、少し二酸化炭素分圧が増えただけでも「生命に関わる一大事」と認識して(無意識の内ですが)パニックになるとする説もあります。
ペーパーバック呼吸法(paper bag rebreathing)は一般的に良く知られている過換気症候群の対処法です。紙袋で口と鼻を覆って呼吸する事により、呼気中の二酸化炭素が袋に溜まり、それを呼吸することによって二酸化炭素分圧が上がって発作がおさまると言われています。一見、理にかなっているようですが、最近ではあまり用いられません。
UCSFのDr.Callahamの有名な論文があります。
Hypoxic hazards of traditional paper bag rebreathing in hyperventilating patients.
Ann Emerg Med. 1989 Jun;18(6):622-8.
(過換気症候群の患者さんのペーパーバック呼吸法による低酸素症の危険)
低酸素状態や虚血性心不全の患者さんに誤ってペーパーバック呼吸法を使用したために死亡した3例の事例が報告されています。そこでペーパーバック呼吸法の影響を調べるために20人の健康な被験者で実験を行いました。被験者は意図的に過呼吸状態を維持するように指示されました。この時のETCO2は平均21.6(SD3.2)mmHgでした。つぎに、過呼吸を維持したまま紙袋(クラフト#4)を当てて呼吸をし、呼気中の酸素分圧と二酸化炭素分圧(ETCO2)を計測しました。ETCO2が50mmHgに達した被験者は数名で、多くは40mmHgにも達しませんでした。一方、酸素分圧は平均で26mmHg低下しました。うち7人は3分後に26mmHg、4人は34mmHg、1人は42mmHgの酸素分圧の低下がみられました。
ETCO2の正常値は35-45mmHgぐらいですから、30秒後にはETCO2はほとんど正常値にもどり安定しますが、酸素分圧は落ち続けます。このままの状態を無理に維持させれば今度は低酸素症で気を失うかもしれません。さらにオリジナルの方法で使うのは紙袋です。密着性が良いビニール袋ではさらに短時間で酸素分圧が低下する事が予想されます。
また、「息苦しさ」は本当の低換気でも起こりますので、パルスオキシメーターで酸素飽和度を計測する事が絶対的に必要です。酸素飽和度のモニターを行わずにペーパーバック再呼吸を行ったり、100%酸素を投与するのは、、、無謀です。繰り返しますが、特にビニール袋で数分以上再呼吸するのは危険な場合があります。
処置中に過呼吸が疑われる場合は酸素飽和度を計測して正常範囲にある事を確認します。次に、私かアシスタントが「ゆっくりと息を吸って・吐いて・吸って・吐いて」と声に出してリズムを取って呼吸してもらいます。場合によっては「吸って・止めて・はい吐いて」というリズムで呼吸をしてもらう場合もあります。
それでも治まらない場合は、笑気鎮静用のマスクに予備の管を繋いでそれをあてて呼吸してもらう事もあります。管の一方の端にはマスクを繋ぎますが、反対側はどこにも繋ぎません。管の部分が死腔(空気が入れ替わらない部分)になるので、換気量をコントロールできます。ジアゼパムを静注すれば不安をコントロールしやすいのですが、注射針を見るとさらに興奮する方もいるので、経口投与できるジアゼパムの錠剤を使う事もあります。
もちろん、パニック障害などで心療内科を受診中の患者さんは心療内科の主治医の先生と相談して、治療の前後だけ抗うつ剤や抗不安薬を処方または増量して貰います。これだけでも充分に効果があります。また、パニック障害ではなくても不安が強い患者さんにはジアゼパムを予め内服していただく事もありますし、モニターして笑気を併用する場合もあります。
注意が必要なのは、肺気腫、肺炎、気胸、サリチル酸塩(アスピリン)の過量摂取、糖尿病ケートーシス、敗血症、尿毒症、心筋梗塞、脳血管障害などでも過換気症候群と同じような症状を起こす事もあるので、鑑別診断は必要です。
余談ですが、マイケル・クライトン(ドラマERの原作者)が書いた小説「アンドロメダ病原体( The Andoromeda Strain)」を思い出します。地球外から採取された謎の病原体に汚染され全滅した筈の町でただ2人生き残ったはアル中の老人と泣き止まない赤ん坊。糖尿病ケトーシスとアスピリン中毒による代謝性アシドーシスと呼吸性アルカローシスによる血液のpHのズレが病原体の活動を妨げたというオチだったと記憶しています。マイケル・クライトンはハーバードの医学部にいたので、この辺には詳しいかったのだと思います。
緊張が強く笑気吸入鎮静法を希望されて来院された患者さんでも、何回か笑気を使って治療をしているうちに、徐々にリラックスされ治療に慣れてこられる方がたくさんいらっしゃいます。このような患者さんはそのうちに「今日は、笑気無しで治療できそうな気がします。」と言われる事が多いようです。そんな時は「それでは、今日は笑気なしで治療してみましょう。でも、ちょっとでも不安を感じたらいつでも笑気を使いますから、教えてくださいね。」と言って笑気吸入鎮静法を使わずに治療をします。
そのまま「自信がつきました。」と完全に卒業される方もありますが、時々「今日はちょっと調子が悪いので笑気をお願いします。」と言われる方もあります。無理をする必要はありませんので、必要があれば笑気を使います。
患者さんに強いストレスを感じさせる事の多い歯科治療ですが、少しでも患者さんの緊張が少なく、リラックスして治療を受けていただけるようにと願っています。